「海の僧院」論‐見ることと、見られること
室生犀星学会秋季大会
犀星小説「海の薄院」について、作中人物「私」の在り方を軸に論じた。「私」は傍観者的に観察し報告する存在として、徹底して「見る」存在として、視覚性を中核とした透明な叙述機能たらんとしている。しかし、作品の展開につれて、そのような「私」の在り方は動揺をきたす。そのきっかけは「私」が尼僧朱道に見られることによってである。「私」と朱道との視線の交差から顕在化してくるのは、性的な関心に基づいて世界を意味づけようとする「私」の志向そのものであるようだ。